「かもしれない論者」との会話はカオスでしかないので、話すことを諦めた件 〜大学生で頑張ることをやめた人たちの悲惨な末路〜

コラム
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こんにちは、Enter(エンター)です。

 

諦めるのが大嫌いな私ですが、最近一つのことを諦めることに決めました。

それは、なんでもすぐ「〜かもしれないじゃない?」とか「でも、〜かもしれない」とかいう「かもしれない論者」とのコミュニケーションです。彼らとはコミュニケーションが取れない。なんでもかもしれないで片付けるから話が進まない上に、努力もしないというカオス状態に持ち込まれてしまうからだ。

奴らの鬱陶しさは「語彙力0」「成長意欲0」「努力0」「情報収集能力0」「噂好き10000」の非科学的で、努力をしない自分を肯定するために全力を注ぐところにあると気付いたからです。

 

数年に渡って、彼らとはコミュニケーションを図ってみたが、どれも効果は薄い。奴らは困ったら「でも〜かもしれない」というカオスワードで、自分が間違えっているかもしれないが正しいかもしれない。という状況にされてしまう。

これをされたら、こちらが何を言ってもその言葉で終わりにされてしまう。会話にならない。

 

とはいえ、その言葉にも一理あるのも確かだ。自分が間違っている場合も当然考えられる。だから1年くらい待ってみた。でも明らかに相手が間違っていた。だから1年前と同じ意見を奴らに言ってみた。

答えは同じだった。こうなったらもう駄目だ。奴らは努力を諦めている以上成長しない。そしてその肯定のために「かもしれない」という言葉を使ってしまう。そんな奴らと話すことなどもうないのだ。

 

価値観が違うのだ。奴らはできるだけ努力せず、割の良い、利益が沢山貰える事がしたいのだ。これは彼らの口癖である「割に合わない」や「給料が少ないから働かない、頑張らない」「失敗したら責任取ってよ」という言葉からもよく分かる。

 

そんな事を言っているから割に合わない仕事しかできないし、給料も上がらないのだが、彼らにはそれが理解できないらしい。

いや、正確には理解しているが目を背けていると言う方が正しいだろう。挑戦したら失敗するのも当たり前だし、やってみなければ分からないこともあるから失敗しなきゃいけない時もあるにも関わらず、「リスク0%、成功率100%」という夢物語の美味しい果実を探している始末だ。もう救いようのない馬鹿の怠け者としか思えない。

 

そんな彼らとはコミュニケーションは不可能だ。そういう人を更生させることに情熱がある人ならいざ知れず、私にはそんな奴らに言うことなど一つもない。少なくともここ数年間私が試してみた施策ではコミュニケーションの大きな改善は無かった。

だから諦めた。

価値観が違う。楽をして頑張りたいけど努力もしたくない、でも噂は好きだから人を傷つけるような陰口や悪口はする。でも、そんなのは人として違うはずだ。小学生でも知っている。

小学生で知っているのに、大人になってからこういう人になってしまうということは、きっと中学〜大学生の間にそういう事を忘れて段々と悪習慣を染み付けてしまったのだろう。そう思っている。そんな長年の悪習慣を取り除くのは数ヶ月では無理だ。

 

でも、だからこそ学生の間に頑張ることを覚えるべきなのだ。大学生で単位を取るために頑張ることをやめてしまった人はこうなる可能性が高い。そんな気がしている。

私はこういう人を軽蔑する。大嫌いだ。でも、変わりたいと少しでも思う心があれば変われると思う。だから自分のことを自分で諦めないで欲しい。

そんな風に思うEnter(エンター)です。

今回の記事はこれでおしまいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

それではまた、お会いしましょう。

執筆者:Enter(エンター)

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